『続日本紀』に見る「色麻」

 私たちの住んでいる「色麻」は、町としての歴史はまだ30年あまりですが、歴史は実に奈良時代の天平9年(737年)の『続日本紀』の記述にまでさかのぼることができます。

 『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、日本の正史(つまり天皇の命で編纂された勅撰史書)として『日本書紀』に次ぐ2番目のものです。国家的プロジェクトで編纂された歴史書であるため、 奈良時代とその前後の時代を知る上で欠かせない極めて権威のある信頼に足りる基本的な史料と言うことができます。
 全40巻で、文武元年~延暦10年(697年から791年)に渡って生じた国家的な出来事について記述がなされています。この歴史書の12巻目と40巻目、つまり聖武天皇の天平9年(737年)の4月の条と桓武天皇の延暦8年(787年)の8月の条に、私たちの「色麻」の地名が登場しています。

 原文が漢文で書かれていますので、ここでも漢文でご覧いただきます。 (原文提示は天平9年の部分のみといたします。)

「(前略)廿五日。将軍東人従多賀柵発。三月一日。帥使下判官従七位上紀朝臣武良士
等及所委騎兵一百九十六人。鎮兵四百九十九人。當國兵五千人。帰狄俘二百四十九人。
従部内色麻柵発。即日到出羽國大室駅。(中略)従賀美郡至出羽國最上郡玉野八十里。」
(『続日本紀』「聖武天皇4月」より) 

解 説:
 東北地方の太平洋側で、大和朝廷の支配下に置かれた地域を、当時「陸奥国」(むつのくに)と呼んでいました。そして日本海側を「出羽国」(でわのくに)と呼んでいました。この両国の軍事的連携を強固にし、朝廷の東北での支配を拡大するために、両国の軍事的直道の確保が急務であった考えられます。このホットラインの確保の任にあたったのが、当時、陸奥国鎮守府(ちんじゅふ)多賀柵(宮城県多賀城)に常駐し、両国を監察する最高位按察使(あぜち)の職にあった将軍大野東人(おおのあずまひと)という人でした。

 将軍大野東人は、天平9年2月25日に多賀柵を出発し、ベースキャンプを「色麻柵(しかまのさく)」とし、騎兵196人ほか約6000人の兵が「色麻」に集結しています。そして、3月1日に、出羽国を目指して奥羽山脈(の峠)を越えて、同日のうちに出羽国の大室駅(おおむろえき。現在の山形県尾花沢市玉野地区とも思われますが、場所はまだはっきりしていないようです)に達しています。

 色麻柵を経由して80里を1日で出羽国の大室についたと記述されています。当時の1里が最近の1里よりはかなり短い距離であろうということを割り引いても、現在約50キロある地点を、1日で軍馬が通る道にしていったことは、信じがたい感じがします。また、おそらく治安が不安定で、敵もいて、兵を6000人も繰り出さなければならなかった軍事的大作戦としては、この1日の行軍は、誰が考えても無理があり、奏上文にありがちの戦果の誇大表現ではないかと思われます。 (「色麻町史」等参照)

 とにもかくにも、この記述は、私たちが住んでいる「色麻」は、古くから文化が発達し、昔からたくさんの人が住み、衣料、食料、水、その他多くのものが調達しやすかった豊かな土地であったことをうかがわせます。

「色麻」の呼び方

 「しかま」と呼びます。

 室町時代の『節用集』という国語辞典に「しかま」と書かれています。


 また、『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)という我が国初の漢和辞典にも 「之加萬」とふられ「シカマ」の訓が与えられています。

 以上が、古代から「色麻」は「しかま」と呼ばれていたことの文献上の証明です。


 「色麻」は歴史ある名前です。

「色麻」での「坂上田村麻呂」の足跡

 色麻町の北西部に清水という地区があります。その中心地に「清水寺」(きよみずでら)があります。京都の清水寺と同じ呼び名です。関係の深いお寺です。
 この寺は征夷大将軍「坂上田村麻呂」に関係があります。 寺に伝わる「加美郡音羽山清水寺略縁記」には次のような記述があります。

 この音羽山清水寺の御本尊は宝亀11年(西暦781年)坂上田村麻呂が平安時代桓武天皇の延暦年間蝦夷征伐のため、征夷大将軍として下向し、所々を平定の任に当たっていた時、田村麻呂は甲冑やもとどりの中に納めてきたが、諸願が成就した後本寺に安置したものである。守り本尊は千手観世音菩薩と毘沙門天である。その節七宝銘塔を造営し両尊に鬼の歯を添えて奉り御上洛(京都に上り)の後、京都音羽山清水寺の良弁僧都を相下らせて開山させたのである。

(その2) かっぱの神社である「おかっぱ様」や伊達神社もやはり「坂上田村麻呂」と深い関係がある神社です。

 詳しくはおかっぱ様及びかっぱ伝説のページまでどうぞ